From:Dr.kappa
木曜日、午後11時31分
日本、本州
(これは、2020年7月31日に送信した私のメルマガを一部編集したものです。)
様々な分野に一流の方々がいます。
彼らはその他大勢と何が違うのでしょうか?
もしかしたら「最近4回にわたってコピーライティングの話をしていたのに、どんな関係があるのか?」と思われるかもしれません。
確かに、コピーライティング(あるいは言葉の人間の関係について)からは少し脇道に逸れますが、私がビジネス(だけでなく本業の理論物理学も)を考える際には、今回お話しする内容が常に背後にある気がしています。
というのも、私が中学生の頃に垣間見た、一流の一流たる所以は、それ以来どんなことをする際にも絶対的な「原理」として意識しているからです。
中学生の頃に何があったのか。
ある本を読んだのがきっかけです。
ただ、中学生ですから、ビジネス書などではありません。
学生らしく?文学作品を読みました。
大河ドラマにもなっているので、もしかしたらあなたも読んだことがあるかもしれませんが、その本は吉川英治の宮本武蔵です。
私はこの歴史小説を読んで、吉川英治が描いた求道者という生き方に感銘を受けました。
当時数学にハマっていたこともあり、数学を極めてやろうと思ったのも覚えています。
(今考えると、若者らしく影響されやすい学生でしたね。)
この経験もあってか、現在では数学を使って物理学を研究する理論物理学者になりました。
私(だけでなく研究者は誰も極めたとは考えていないと思いますが)はまだまだ数学も物理も極めたとは言えませんが、それでも武蔵のように1つのことを深めていくということを無意識に意識しているように思います。
そして、私なりに、武蔵のような一流には、共通点があると経験的に感じています。
それはその他大勢では識別できない細かな部分まで認識できることです。
例を挙げましょう。
小説の中で、武蔵は柳生石舟斎に会いに行く場面があります(本は今手元に無く、記憶に基づいているので誤りがあるかもしれません)。
ただ、武蔵はなかなか石舟斎に会えませんでした。
そんな時、1本の生け花の切り口に目が止まります。
なぜかは説明できないが、切り口が鋭く、きっと腕の立つ者が切ったに違いないと。
そこで、武蔵は試しに自分でも茎のもう一方を切ってみます。
ですが、2つの切り口を見比べても、どうしても元の切り口に太刀筋が敵わないと結論します。
切り主が気になった武蔵は、宿の者に、誰が切ったのかと聞くと、柳生家の者だろうということだけわかりました。
それでもモヤモヤが解消しなかった武蔵は、その生け花を切った者は誰か、柳生家に問い合わせてみます。
その問い合わせを受けた柳生家の門弟は、武蔵が問い合わせに付けた、両端が切られた生け花を自分たちで見比べてみます。
ただ、門弟たちではその2つの切り口の違いがわかりませんでした。
そこで、武蔵というのは余程できる者なのだろうと門弟たちも興味を持ち、彼を招いて話を聞こうということになります。
…
物語はまだまだ続きますが、今回のメールに関連するところは以上です。
つまり、道を極めて行くと、だんだんと観察・思考が細かくなり、そしてそんな細部まで制御できるようになる、ということをこの話から学ぶことができます。
ひとが認識できない差を識別できる一流に、当時10何歳の私は子供らしく「かっこいい」と感じると同時に、一流とはどのようなものか、というのを知った気がしました。
この教訓「一流は物事を細かく観て、細部まで工夫できる」というのは恐らく吉川英治の数十年の人生から得たものだったのでしょう。
そんな知見を10数歳の頃に得られたのは、私に取ってはとても運が良かったと感じています。
吉川英治の語り口(例えば彼の水の描写など)が好きだったこともあって、その後も何度も宮本武蔵を読み直しています。
そして、その度に、一流とはこんなものか、と確信を深めていった記憶があります。
ただ、これはあくまで小説の中の話に過ぎません。
実体験を伴った知見ではありませんでした。
ですが、成長し、大学院へ進み、そして研究者になる頃になると、一流の理論物理学者の論文を何本も読むようになりました。
すると、吉川英治が教えてくれた一流の一流たる所以を実体験として経験することになります。
つまり、一流の研究者は、私のような凡人が意識さえしない部分を注意深く調べ、その結果、大きな発見に繋がった研究をいくつも目にしたのです。
そのような論文・研究を目にすると私は宮本武蔵を思い出し、やはり一流は凡人の見えない差を識別しているのだと、再認識します。
そして、同様の観察はコピーライティングを勉強・研究し始めても得ることになります。
つまり、一流のコピーライターたちは、常人では気にもしないような小さな部分まで細心の注意を払っていることを知ります。
いくつかの例を挙げるなら、
・助詞の選択(例えば「は」にするのか「が」にするのか)
・読点を入れるのか否か
・漢字にするのか平仮名にするのか
・類義語の中からどれを用いるのか
これらはほんの一部に過ぎませんが、一流のコピーライターたちは、これらの選択を意図と根拠を持って行っています。
コピーライティングの世界でも、一流は常人には認識さえできない差異を識別し、そして制御していることを見たのです。
ここまで来ると、私の中で一流の一流たる所以はもはや「原理」のようなものになりました。
全く異なる3つの分野で、一流が同じことを行なっているからです。
(理論物理学では、ある主張が全く異なる3つのテストをパスしたら、その主張はほぼ100%正しいと考えられています。)
つまり、一流とは「物事を細かく観て、しかも識別できる細部まで工夫できる」者だと。
芸が洗練されていると言っても良いでしょう。
そして、コピーライティングをきっかけとしてビジネスを行うようになると、多くの経営者とのご縁にも恵まれました。
彼らとはこのような仕事の話はあまりしないのですが、成功している経営者たちを観察していると、洗練されているのは芸だけではないことにも気付きます。
何が洗練されているのか。
それは他人との接し方、生き方、身だしなみ、などです。
なぜこのような共通点が生じるのかと私なりに考察すると、仕事を通して培った認識・観察・思考のきめ細かさが、仕事だけでなく他の場面でも表出するからだと現時点では考えています。
この考察の根拠は、彼ら経営者の観察だけではありません。
一芸に秀でる者は多芸に秀でると昔から言われています。
そして、この理由も上でお話しした「原理」で説明できます。
つまり、一芸の求道を通して、そもそもの認識・観察・思考のきめが細かくなっているので、他のことを行なっても通常は気にもされない部分に目が届き、そして制御できるようになると考えられます。
言い換えると、思考面での洗練度という基礎体力が上がっているので、他の芸を行なってもすぐに細部の差異に気付き、短時間で洗練された技を身に付けられるのではないかと考えています。
ビジネス(特にコピーライティング)においては、洗練度は配慮に他ならないので、ビジネスを通して培った配慮の仕方をコミュニケーションなどでも応用しているのだと思われます。
これが、成功している経営者には、人としても優れた方が多い理由ではないでしょうか。
実は、一芸に秀でることで人格も磨いた人物の1人が宮本武蔵に他なりません(少なくとも小説の中で)。
彼は敵が多かったため、友人たちに迷惑が掛からないようにと、きめ細かな配慮をしていた様が描かれています。
これも剣を極める中で、細部まで観察し、コントロールする術を身に付けていたからでしょう。
微妙な感情の変化、状況の変化を鋭敏に察知し、友人に迷惑が掛からないようにと配慮していたと考えられます。
また、武蔵は剣以外でも秀でていたことが知られています。
小説の中でも絵画や彫刻に才能を見せたことが描かれています。
つまり、武蔵は典型的な「一芸に秀でることで多芸に秀でた者」だったということです。
そして、彼の歩んだ道こそ、私が目指しているものに他なりません。
ビジネスで(一時的に)結果を出すことは難しくありませんが、それは私が求める道ではありません。
認識・観察・思考のきめ細かさ、(上の私の言葉を使うなら)思考面での洗練度自体を上げることで、人格も磨いていきたいと考えています。
思考は言葉でできていますので、言葉の使用法を磨くという私が選んだ道は、もしかしたら思考を洗練させる最短の近道なのかもしれません。
最後までお読み頂き、どうもありがとうございました。
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