From:Dr.kappa
水曜日、午後7時29分
日本、カフェより
ついさっきあったことです。
私は夕食の買い出しに向かって歩いていました。
「それ」はスーパーのすぐ手前で起こりました。
横断歩道の向こう側。
そこには見慣れた顔がありました。
彼女は昨日会った方。
彼女は笑顔で私に手を振ります。
私の横で信号を待っていた2人組も彼女の知り合いらしく、彼女の振る舞いを見て話し掛けられました。
なぜ彼女がこんなに喜ぶのか?
原因は昨日に遡ります。
**
昨日も私は同じスーパーに買い出しに向かっていました。
その時、女性が近寄ってきました。
彼女曰く、「日本語を勉強した韓国人が3分ほど発表するから聞いてくれますか?」と。
私は特に急いでいる訳ではありません。
その方達のためになるなら、と「良いですよ」と答えました。
すると、数m離れて別の人たちに声を掛けていた当人たちが近寄ってきました。
発表の内容は聖書について。
彼女たちはキリスト教?の1つの派生、ある宗教団体の方々でした。
誤解のないように最初に断っておきますが、私は積極的無宗教の立場を取っています。
ですが、研究者として、アメリカやヨーロッパの方々と関わることも少なくありません。
彼ら彼女らの価値観はキリスト教に基づいています。
その為、その価値観の背景にある聖書を読んでおくことは教養として有意味だと考えています。
このような理由から、10年ほど前、別のキルスト教?の1つの派生の方々と聖書を読んでいました。
当時から私は論理的に考える「面倒臭い」者でした。
・「神の定義は何か?」
・「全知全能で定義するなら、その神は存在しないことを数学的に証明できる」
・「アダムとイブ、2人が罪を犯したら、それを贖うにはキリスト1人では不十分では?」
と言った質問を解説してくれていた方に投げ掛けていました。
確かに、彼は答えようとしてくれました。
(後で登場する方とは違い、真摯に。)
ただ、その答えに私は納得することができませんでした。
彼とは2年ほど聖書を読みましたが、結局、上の疑問に対して論理的に納得できる説明は得られず、次のような結論に到達していました:
「聖書がどのような文脈なのかは大体わかった
だが、論理的説明は付かず、やはり信ずるには足らない」
ここでも、1つ注意を加えさせてください。
これはあくまで私が自分に関して下した結論。
それを他人に押し付けるものではありません。
したがって、他の方々がキリスト教を信じることを否定するものではありません。
私の理解では、宗教というのは死の恐怖を克服するために生まれた物語。
それを信じることで死の恐怖が薄まるなら、信じれば良いと考えています。
私にはこのような経験があったので、昨日、彼女らの発表を聞いた後に、最初に私に声を掛けた日本人女性に同じ質問を投げました。
彼女曰く、「私もまだ勉強中でわからない
教会に詳しい者がいるから教会に行かないか?」と。
私は買い物をして夕食を摂りたかったので、教会へ行くことは断りました。
代わりに、「その方に電話で聞くことはできないか?」と提案しました。
すると、その日本人女性が電話を掛けてくれます。
まずは事情を説明し、私に電話を替わってくれました。
電話口で私はまず、過去に聖書を読んでいたこと、そしてそこからコレコレの疑問がある、と伝えました。
すると、電話の相手(男性)は、「自分たちが使っている聖書と異なる」と言います。
聞いてみると、確かに根本から前提が違うことがわかりました。
昨日はお腹も空いてきたので、「また機会があったら」というお決まりの社交辞令を言って別れてスーパーへ向かいました。
ちなみに、スーパーで買い物をしてホテルへ向かって歩いていると、再びその3人組と会いました。
どうやら教会はスーパーのすぐ近くだったようです。
**
そして今日。
昨日と同じスーパーへ向かって歩いていました。
すると、昨日発表をしてくれた韓国人女性が横断歩道の向こう側にいました。
これが彼女が笑顔で手を振った理由。
隣にいた2人組の1人は昨日電話で話した方でした。
そこで、横断歩道を渡りながら単刀直入。
本題を切り出しました。
「神の定義は何ですか?」
「万物の創造主です」
「全知全能という理解で良いですか?」
「はい」
「では、その「神」が存在しないことを数学的に証明できます、証明は云々」
「分かりません」
昨日の日本人女性によると、彼ら彼女らが使っている聖書によると全てが証し(あかし)されている、全て辻褄が合っている、とのこと。
私はやはり空腹を感じていましたが、「もし本当に彼ら彼女らの使う聖書が論理的辻褄が合っているなら、そちらを読んでみるのは教養として価値があるかもしれない」。
私はこう考えて、時間を区切ってX分まで、と教会なる場所へ行って彼と話してみることにしました。
教会へ着くと、彼は冊子を取り出して神が存在することの説明を始めます。
彼らの論理は次の通り。
見えないからと言って存在しないか?
例として、大きな宇宙や小さな細菌などを挙げます。
そして、これらは見えないけど望遠鏡や顕微鏡という道具を使って証拠を集め、存在することを知っている。
だから、聖書という道具を使えば神が存在することを知ることができる、とのこと。
そして、次のページで「証拠」の1つとして、万有引力が見つかる前から聖書には地球が宇宙に「浮かんでいる」と書かれていたことが挙げられています。
一通りの論理を聞いたので、ここで私は質問を始めます。
「浮かんでいる、という表現は正確ではない」
「浮かんでいると言うと、それ(今の場合は地球)の背後に媒体があり、しかもそこからの力と別の力が吊り合っている、というニュアンスになる」
彼は私の疑問点には答えず、「では正確な表現は何ですか?」と聞きます。
そこで私は重力で云々、と科学的に、そしてできるだけ論理的に正確な表現を与えます。
ですが、彼は「浮かんでいる」という表現に誘導しようとしてきます。
「それを子供に伝えるとしたらなんと言いますか?」
「それは誘導ですよ」
「子供に対しても重力云々と言うのですか?」
「正確に伝えようとすればそうなります」
彼のために詳細は伏せますが、ここで彼は私を個人的に非難するようなことも言ってきました。
彼はまた地球が丸いか?ということも聞いてきます。
「丸というよりは楕円という方が正確ですね」
「平らということはできませんか?」
「見方によっては平らと言うこともできますよ」
ここで彼は昔のインド?では、地球が平らで、それを象?などが支えていた、という神話を出してきました。
彼の飛躍に対して私は「神話を使わなくとも、見方によっては平らと言うこともできます」と答えます。
「その見方というのは?」
「局所的に見る視点」
ここで彼は再び誘導をしてきます。
「全体で見ればどうですか?」
「その視点だと楕円が正確に近いです」
要領を得ないので、私は「どの視点に立つか」の重要性を彼でも理解できそうな例で話すことにしました。
「1+1=3を証明することができます
私たちは1+1=2と思っていますが、これは0.0000と小数点なん桁まで含めた場合のこと
四捨五入して表示している、という見方に立ちましょう
例えばコンピュータは無限桁を表示できないので、有限桁で切って表示しています
すると、0.1の位を四捨五入して表示している、という見方に立つと1.4+1.4=2.8は1+1=3になります」
(この点は良いでしょうか。
1.4は0.1の位を四捨五入すると1になり、2.8は0.1の位を四捨五入すると3になります。
したがって、この立場に立つと1+1=3という表示になります。)
余談ですが、地球のような形も局所的に見ると平ら、というのは数学で微分幾何学と呼ばれる分野、正確には多様体と呼ばれる概念を念頭に置いてのことです。
簡単に言えば、大きく見ると丸い地球も、局所的に見ると地図のように平らに見える、ということです。
ここら辺で私が最初に宣言した時間になったので、私はスーパーに行くと言って教会を去りました。
彼と話してみても結局論理的な辻褄が合っているとは思えませんでした。
また、論理と個人を混同し、私の論理ではなく私自身を攻撃してくるような者たちに辻褄の合った説明ができるとも思いません。
したがって、私は今後、彼らが「正当」と呼ぶ聖書を読むことはないでしょう。
**
さて、この出来事から学べることは何でしょうか。
1つは「自分がどの視点に立って話しているか」を認識することの重要性。
「学校」では間違いとされる1+1=3も、上のような視点に立てば正解になります。
また、そもそも「何を正しい、何を間違い」とする判断にも何らかの視点が入っています。
したがって、この視点を認識することも重要です。
さもなくば、「自分は絶対的に正しい」という傲慢に繋がります。
このことを非常に鮮やかに説明した哲学者がいます。
彼の言葉を引用しましょう:
**ここから**
収穫したリンゴを出荷するために、リンゴの一個一個を検査する。
そして、品質や見映えなどに合格したものだけが市場に出される。
商品として確実を期すためだ。
しかし、なぜかその検査そのものを検査することをしないのだ。
検査が正しいとは限らないのに。
私たちもこれとまったく同じことを平然と行っているのではないか。
なぜならば、自分たちがずっと抱いている信念や確信の正しさをちっとも疑わないのだから。
君は、自分の信念や確信を疑ったことがあるか。
**ここまで**
私はこの言葉を知っているので、「科学が絶対に正しい」などとは考えていません。
あくまで証拠を積み重ね、正しい確率が上がっていくだけです。
どこまで行っても正しさを証明することはできません。
限界を知っているから謙虚になれる。
限界を正しく認識するから、より正確な認識・思考が可能となる。
例えば、ある主張がどこまで成立するのか?その限界を正しく認識していないと、本来は成立しない時に使ってしまい、ミスに繋がります。
これは学問だけの話ではありません。
普段の思考やビジネス、投資もそう。
投資の世界には様々な格言があります。
ですが、それらの背景・視点を正しく認識していますか?
どの視点に立っているか。
ここに注意しないと怪我をし兼ねません。
投資での怪我は莫大な金額の損になり得ます。
私は何人もの知人から「数100万円の損をした」という話を聞きました。
彼らの投資法は多くの場合、2次元です。
ですが、そのことを認識した上で投資している者はどれだけいるのでしょうか。
また、彼らの手法は個人的な経験に基づく場合がほとんどです。
その経験はそもそも正しいのでしょうか。
偶々ではないと、シミュレーションで実証できるのでしょうか。
自分の視点がどこにあるか。
ここを正しく認識しないことの危険性を私は本業の研究を通して体感しています。
そのため、私が計算した投資法では
・仮定を明らかに
・シミュレーションで個人の経験を超えた統計的な再現性に
することを目指しました。
シミュレーションの結果、100回中99回、資産が増えました。
誰かの経験に基づいた、正しいか否かも判断できない手法で大怪我をしないことを祈っております。
最後までお読み頂き、どうもありがとうございました。
ご質問やご意見を歓迎します。
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